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◆Kantorowicz, Ernst H. (1957). The king's two bodies : a study in mediaeval political theology. Princeton, N. J. : Princeton University Press. (小林 公 訳 1992 『王の二つの身体』,平凡社→ 2003 ちくま学芸文庫)
序文
序章
第一章 問題の所在 ―プラウドン判例集
第二章 シェイクスピア ―リチャード二世
第三章 キリストを中心とする王権
第四章 法を中心とする王権
第五章 政体を中心とする王権 ―神秘体
第六章 連続性と団体
第七章 王は死なず
第八章 人間を中心とする王権 ―ダンテ
第九章 エピローグ
原注
図版
二つの身体が教義上は統合しているにもかかわらず、一方の身体が他方の身体から分離することがありうる。すなわち、普通の人間に関して通常は死と呼ばれている分離である。<ウィリオン対バークリー事件>において、後述の判例集の一説が記されているように、裁判官サウスコートは次のような趣旨の注目すべき議論を提出し、裁判官ハーパーもこれに賛意を表していた。
王は二つの身体を有している。というのも彼は二つの身体を有するからである。そのひとつは自然的身体であり、これは、他のあらゆる人間と同じように自然的な四肢から成り、その点で、王は他の人間と同じように感情に動かされ、死に服するのである。他の一つは政治的身体であり、その四肢は王の臣民たちである。そして、サウスコートが述べたように、王が臣民と一緒になって団体(コーポレーション)を構成するのであり、王は臣民と合体し、臣民は王と合体する。王は頭であり、臣民は四肢である。そして王のみが臣民たちを統治する。この身体は他の身体とは異なり、感情に動かされることなく、死に瀕することもない。というのも、この身体に関する限り、王は決して死ぬことがないからである。したがって、(ハーパーが述べたように)我々の法において、王の自然な死は王の死とは呼ばれず、王の崩御と呼ばれているのである。この(崩御という)言葉が意味するのは、王の政治的身体が死んだということではなく、二つの身体が分離したということ、そして今や死に、あるいは王の威厳を離れた自然的身体から、もう一つべつの自然的身体へと政治的身体が移され運ばれていく、ということである。それゆえ、崩御という言葉は、この王国の王の政治的身体が、一つの自然的身体から別の自然的身体へと移転したことを意味するのである。(上, pp.35-36)
すなわち、議会における王の任務は、貴族院や庶民院の議員たちと結束し、必要とあれば、自然的身体としての王に対してさえ敵対することであった。このような考え方によって、議会における王は議会対のなかに包摂され続けたと同時に、「彼自身の人格における」王が未だそこから排除されることはなかった。(上 p.49)
王の二つの身体という法的擬制が、エリザベス朝および初期スチュアート朝時代におけるイングランド政治思想の顕著な特徴であったことは、疑いもなくたしかなことである。しかし、このような思弁が16世紀と17世紀に限定されていたとか、それ以前には存在しなかったと考えるべきではない。(上、p.87)
すなわち、教会という有機体は、ほとんど法学的な意味における「神秘体」、すなわち「神秘体的な法人」となった。用語上の変化は、単に偶然ではない。それはそれは、<教会の法的身体>(corpus ecclesiae mysticum)と合致することを可能にし、このような仕方で「神秘体」の観念を世俗化していくことを可能にするような、さらなる一歩を意味したのである。(上 p.266)
もともと祭壇上の政体を指示していた<神秘体>という観念は、12世紀以降、教会の聖体ないし<法的身体>(corpus iuridicum)を表現するために用いられるようになった。―もっとも、以前よりこの観念に含まれていた意味合いの在るものは、依然として保持され続けたのであるが。その上さらに、キリストの内なる二つの本姓という古典的なキリスト論上の区別は、1100年前後のノルマン逸名著者の政治神学においてなお力強く存続していたものの、今や政治的な論議や理論の領野からほとんど完全に姿を消すに至った。これに代わって登場したのが、キリストの二つの身体に関する団体論的で非キリスト教的な概念である。キリストの二つの身体のうちの一つは自然的かつ人格的な真の身体、もうひとつは超個人的な政治的かつ集合体たる<神秘体>であり、これはまた<神秘的人格>として解釈された。<真の体>という観念が、化身の教義および<キリスト聖体の祝日>の制度化を通じて自らの生命と神秘論を発展させていったのに対し、固有の意味での<キリスト教の神秘体>は、時の経過とともに次第に神秘的性格を失っていき、単に聖体としての教会、あるいは用語の転用によって、俗界の政治体を意味するに至ったのである。(上 pp.271-272)
最初はキリスト教により保障され、次に法によって保障された王権の連続性は、今や国王の<神秘体>によって保障されることになった。この<神秘体>は、いわば決して死ぬことがなく、むしろ教会の<神秘体>のように「永遠の」ものとされた。「神秘的」性格を帯びた政治的共同体の観念がひとたび教会により明確にされるに至ると、世俗国家は―これに対する対型を確立することによってこれを処すべく―ほとんどいやおうなしに教会の模範に従うことを余儀なくされた。(中略)
いずれにしても、後期中世の団体論的な問題は、これ以降の時代において法的問題や「法の専制」が占めていた優越的地位を脅かし始めた。これは、法と王の関係がどうでもよい問題になったことを意味するわけではない。むしろ、法と王の関係は、王と政体の関係についてのいっそう広範な問題によって吸収され包摂されていったのである。すなわち、政体そのものが法であることが主張され、政体は、自らに内在する動力によって、-教会とは別に―倫理的で半ば宗教宗教的な固有の規範体系を発展させていった。(上, pp.300-301)
もう一度繰り返して言えば、人格化された集団や団体の最も重要な特徴は、それが過去及び未来へと投射されていること、変化にもかかわらず同一性を保持していること、それゆえ法的な意味で不可死であるということである。個々の構成員から団体としての<統合体>が切り離された結果、任意の特定の時点において集団を形成するこれら可死的な構成員は、相対的に重要でないものになった。これらの構成員は、彼らを超えて生き残り、自ら物質的に破壊されても存在し続ける不可視の政治的身体そのものに比べれば、重要性を欠く存在であった。しかし、団体の<統合体>と、たえず変化するその構成部分が不可死の実態を作り上げていることは認めても、政治的身体の「頭」はどうなるのだろうか。この「頭」も、結局のところ一人の可視的な個人だからである。(下.p.52)
王国の頭の永続性、「決して死ぬことのない王」(rex qui nunquam moritur)という観念は、主として三つの要因の相互作用によって生じたものである。すなわち、王朝の永続性、王冠の団体的性格、そして王の威厳の不可死性である。これら三つの要因は、漠然とではあるが、王の自然的身体のと途切れることなき連続性、頭と四肢とによって表現される政治的身体の連続性、職務の―すなわち頭だけの―不可死性にそれぞれ対応している。しかし、ここで強調すべきことは、これら三つの構成要素が必ずしもつねに識別されてはいなかったということである。これらの要素は、しばしば相互に置換可能なものとして言及されていた。そして言及されている対象が明確に識別されていなかったことは、特に後期中世のイングランドにおいて顕著であり、結局のところイングランドの法学者たちは、プラウドンによって表現さていたような奇妙な解決方法へと到着することになる。(下, p.59)。
エドワード四世自身は、王冠の権利による以外に公領に対していかなる権限も有していなかった。というのも、この公領は、まさに王冠に対して犯された大逆罪のゆえに没収されたものだからである。しかし、明らかにエドワードは、家の勢力が王の権力と財産にもたらすあらゆる利益を放棄しようとはしなかった。そこで、前期の難問を克服するために、王と彼の法律顧問は驚くべき工夫を凝らした。彼は、没収された公領を法人化したのである。(中略)今や法人格を与えられた公領は、一つの法人として、他の王冠財産と融合することなく、王冠の一部となった。すなわち、公領のあらゆる権利とその従物を損なうことなく、公領を昔日のままに維持するために、そしてまた他の王冠財産と区別して公領を一括して保有し、それを特別の管理下におくために、公領は議会の制定法によって法人へと変えられたのである。(下, pp.163-164)
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